月刊BLUEBNOSE 2024年09月号(#9)『文章も、過ぎたるは猶及ばざるが如し』
なぜそうするのか、またこうした方が良いのではという理由等についても、個人的な偏見や主観多めでお届けします。
オウンドメディアや
noteでは、
筆者個人の偏見や経験が混在してもできるだけ客観的な記事を目指していますが、こちらのメール配信型メディアの場合、もう少し主観寄りの話をお届けしても許されるのでは、と考えています。
各メディアを横断して、なぜか今月は文章に関する記事が多くなっているので、こちらでも文章に関する話題、主に筆者の好みや感性、こだわりによる文章の良し悪しについてお届けする予定です。
いつも以上に役に立たない可能性がある駄文となりそうですが、秋の夜長を有意義に過ごす、一つの埋め草や路傍の石にでもなれば幸いです。
「具体的な言及」は、想像を掻き立てる良い文章
好みの話をする前の前提として、響きや修辞、レトリックが重要な詩歌を傍に置くと、読み手の想像を手助けする文章が良い文章だと考えています。書かれた文章を読んだ時、固有名詞や数値、具体的な言及があると、読み手が頭の中でそれらを想起しやすくなり、その先に展開される話も受け取りやすくなります。
例えば、何かを写した写真や映像にぼかしやモザイクといったフィルターがかかっている場合、それがあまりにも大きく粗いものであれば、その向こう側を想像するために多大な想像力を要します。逆に、フィルターが薄く繊細な加工であれば、フィルターがあっても輪郭や色合いまである程度捉えることができ、その先にある実態を想像しやすくなります。
この時、もう一つ重要なのは「そのもの」を直接提示しないことです。あくまで受け手に想像力を発揮してもらい、やや前のめりに、積極的かつ能動的に情報を受け取ろうとしてくれていないと、ただ提示された情報を「ああ、なるほどね」と表面的に受け取られるだけで終わってしまい、歩み寄りや相互理解、深い理解は果たせません。
ポイントとなるのは「チラリズム」。正確な説明はWikipediaに譲りますが、
端的に言えば、「匂わせ」や「秘すれば花」といった考え方です。見えるか見えないかのギリギリのラインを攻めつつ、「見えない」に落とし込むことで、その先をもっと見たくなる、前のめりに情報を受け取りたくなるのが、チラリズムだと考えています。(完全に見えない方が良いという紳士諸君もおられるので、そこは趣味嗜好の問題?)
例えば、機密情報に関する黒塗りの文書があったとして、全面的な黒塗りであれば想像の余地はありませんが、1文字や2文字程度の虫食い状態であれば、「何が当てはまりそうか」を検討しやすくなります。広告の分野で用いられる文章には、欠かせない考え方だとも思っています。
読み手は、書き手が言及したことを元に想像を膨らませる。
望洋かつ抽象的な言及では、それ相応の想像しかできませんし、自分に関係がある情報だとも思わないでしょう。受け取る必要に迫られていない場合、そこから先の進展は見込めません。
とどのつまり、「色々」や「様々」は何も言及していないにも等しく、良い表現とは言えません。どこまで具体的に言及するか、あるいは具体的に言及するだけの知識や経験がないから、資料や辞書を紐解けば見つかる一般的な表現や、抽象的な物言いになってしまうというのが実情でしょう。
想像力を働かせながら書いたり、より具体的なことを考えながら書くと思いますが、ぼんやりした表現が出てくると、「あ、そこまでは考えてないんだな」と受け取られてしまうかも。意図的にぼかしたのであれば、そういうテクニックを有する書き手だと認識してもらうか、そこまでの文章を違和感なく受け取ってもらい、信用を積み重ねる他ないでしょう。
「私のことを語っている」と共感を得たり、「あの時、あの場所、あの人の話をしているんだな」と親近感を抱いてもらったり、「なんでそんなことまで分かるの?」と驚いてもらうためには、より具体的に、より狭い範囲でキーワードを拾い、それを元に話題を展開すると良いでしょう。キーワードやネタが狭ければ狭いほど、そして具体的であればあるほど、読者の共感は強まります。
共感性が強まると、共感性羞恥も強くなる
具体的な言及や心地よい文章で、読者と書き手の結び付きが強くなると、今度は共感性羞恥も引き起こしやすくなります。共感性羞恥とは、
他人が恥ずかしい思いや状況に晒されている時、まるで自分ごとのように共感してしまい、自分も恥ずかしさを覚えて、いたたまれない気持ちになる現象です。
書き手や文章に共感や親近感を抱いていればいるほど、書き手の何気ない表現も自分が表現したように感じてしまい、それらがいわゆる「黒歴史」や
「厨二病」
の思い出を想起させてしまうと、羞恥心を刺激することとなります。
今から思うと消してしまいたい「黒歴史」や、若気の至りである「厨二病(中二病)」の頃の表現やこだわりが詳しく描かれると、親和性や共感が強ければ強いほど、その辱めの効果も強まります。
当時はそれがカッコイイと思って積極的に選択していた「とにかく横文字、英語にする」とか、「無駄に難しい方の漢字を選ぶ」とか、持って回った表現をわざわざ使うとか、日本語の表現に英語やフランス語、スペイン語などからカタカナの義訓を割り当てるとか。「気」で良いところを「氣」にしたり、「私」を「和多志」にしたり、「頑張る」を「顔晴る」と言葉遊びをしてみたり、「言葉」をイチイチ「言の葉」と気取ってしまうとか。この時点で「やめて、やめて」と思う人がいるかもしれませんね。
共感性羞恥とはやや異なりますが、映像作品で主人公らが痛い目に遭うと、こちらも痛い気がしてくるとか、あまり直接的な表現が続くとしんどくなってしまうのも、共感としては似た現象でしょう。
また、急に歌い上げるシーンや、気取った物言いや指摘な表現が出てくると、受け入れにくくなる方もおられるのでは。オペラやミュージカル作品をあまり好きになれない方、得意でない方は「なんでそこで歌うの?」という感覚と同時に、共感性羞恥の問題もあるのでは。
ややダサい表現、手垢がついた珍しくもなんともない表現を急に提示されても、何とも思わず受け入れることが出来たとして、同様に恥ずかしさを覚える表現が目の前に飛び出てきた場合は、不快に思う方もおられるでしょう。
具体的に言及する度合いが高ければ高いほど、それを由来とする共感性羞恥は強くなる。
だからカッコつけすぎた表現や、書き手の好みで尖りすぎた表現を選ぶのは避けた方が良い、と考えています。
需給のバランスを考えつつ、「ややダサ」くらいがちょうど良い
マニアやツウに好まれる表現、深く受け取ってもらえる表現と、一般ウケする表現、万人に手軽に消費される表現とは反比例するイメージを持っています。また、尖った表現や専門的な表現ほど価値が高まる一方で、一般的な需要は減少する傾向があるとも考えています。
広告やブログ記事、書籍などのコンテンツも消費物や商品である以上、需要と供給のバランスを考えて、適切な落とし所を調整する必要があります。
「キャッチコピーはキャッチなんだから、深く刺さらなければならない」とか、「ボディコピーもコピーである以上、多少はキメなければならない」とフレーバーテキストに力を入れるとか、「CTAやオファーが凡庸では売り上げに繋がらない」と先鋭化させすぎると、深く仕舞い込んだ記憶まで刺激してしまったり、人を選びすぎてしまって逆効果となる可能性も。
そんな望まぬ失敗、意図していない逆効果をもたらすぐらいなら、クールやカッコ良さとは真逆の方向、あえてダサい表現、手垢のついた表現を選んだ方が良い、ということもあります。ちょっとしたダジャレや控えめなダサさは、尖った表現より受け入れられやすいように思います。
本格的な「ガチ中華」より、家庭の味に寄った「町中華」の方が街や日常に溶け込んでいる印象がありますし、実際に日本国内での店舗数や老舗も、町中華の方が多いでしょう。程々の方がバランス良く、経済的にも受け入れられやすく長続きしやすいという、一つの事例です。文章や創作物も、あまり違いはないでしょう。
関西の場合は更に、いわゆる「いちびる」、つまり調子に乗っているとか、過度にカッコウをつけすぎている、気取りすぎていると、嫌われる傾向にあります。
程々に持って回った婉曲的な表現や女房詞、京都特有の言い回しなども豊かな地域ですが、どちらかというと素直でストレートなハッキリした表現、スパッと言い切る表現の方が好まれるイメージです。気が短くせっかちな人も多い地域柄、長々と中身のない話をされるよりは、相手を楽しませる漫談や漫才など、短くても笑える話をする方が好まれるでしょう。
また、「寒い」とか
「スベる」にも厳しい地域です。
良かれと思ってボケたりカッコウをつけた結果、場を白けさせたり、受けなかった時はこれ以上ない、負のイメージを持たれます。受けないのにわざわざボケる、面白くもないのに持って回った表現で時間を空費する、自分だけ好かれるためにカッコつけたりすると、嫌われるでしょう。
文章も尖った表現でカッコつけていちびってる場合、「寒いで」とか「スベってるで」と思われかねません。笑いどころを勘違いして無駄にボケに走って、「自分、分かってないな」と嫌われる可能性もあるので、等身大で無理をしないのが賢明です。
千年の都というか、今も都だと思っている京都の方を巻き込んで関西や近畿も地方と一括りにしてしまうのは大変申し訳ないですが、東京周辺、都心部でない代表的な地域である関西が上記の通りなので、都心部以外には同じ考え方で文章を考えても良いのでは。
東京23区の中でも煌びやかな地域に向けた文章でない限りは、あまり気取らず、ちょっとダサくて身近な表現を選んだ方が良いように思います。
できるだけ身近な言葉で、違和感なく受け取ってもらいたい
クールな表現、カッコ良い表現に対義語を設定するなら、手垢がついた表現やダサい表現が該当するでしょうか。手垢がついた表現と言われると、クリエイティビティのかけらもない表現のように思いますが、身近にありふれている表現、受け取るのに特別なスキルも感性も必要としない、「日常の言葉」ともいえます。
広告やマーケティングを特別なお祭り騒ぎ、「ハレ」の取り組みだと考えている場合は相性が悪い考え方ですが、BBNではそれらとは対極にある「ケ」、何でもない日常におけるマーケティングを念頭に置いているため、「ハレ」の言葉ではなく「ケ」の言葉、スタイルがマッチします。
劇的に新しいものとか、斬新でアナタが欲しいと思うものだと派手に喧伝するのではなく、今までと同じ繰り返しの中で、ちょっとだけ隣の商品を使ってみませんか、似たような代替策をお試しして、気に入ったなら使い続けてみませんか、と一瞬魔が刺すような形の切り替えやすり替えを粛々と企図する、低刺激な表現やマーケティングが軸となります。
普段触れている言葉や自分たちが使っている表現でないと、異物として警戒されてしまいます。極力自然に、日々触れている水や空気と変わらない形で、無警戒かつ記憶にも残らないくらいの「普通」、自然体を目指しています。
オステリア ルッカ
のオーナーシェフ、桝谷 周一郎さんが掲げる「誰にでも作れる料理を、誰よりもおいしく」のように、誰にでも使える表現で、誰よりも効果的かつ鮮明に伝えるイメージでしょうか。基礎的なこと、基本的なことを徹底的に磨き上げ、鯉が川の中を泳ぐような自然な動きで想いや言葉を紡ぐ、伝える姿を理想としています。
そこに奇をてらった表現や、気取った表現が入る余地はありません。
普段使いの言葉をベースに、ちょっとだけ小技を聞かせて見栄え良くする、ワンポイントのカッコよさを演出しつつ、そこに書き手の匂いや温度、人柄が透けて見えるというか、にじむような文章、文体を心がけるようにしています。
テクニックに走らない。知識やセンスをひけらかさない。
文章表現においても、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」。平凡であること、味気ないほど無味無臭であることは全力でやり過ぎておいて、あとは程々かちょっとダサめの匙加減がちょうど良い。それが筆者の思う、良い文章です。
おしまいに
力を入れて過度なカッコよさを求めないBBNと、普段着のWebマーケティングや、月額制Webサイト制作に取り組んでみませんか?
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