月刊BLUEBNOSE 2025年06月号(#18)『ベタ is Best.』
クリエイティブな活動でも、自己の客観視って大事ですよね。今の自分に何が出来て、何が足りていないのかを直視するのは、テストの自己採点みたいなもので、必要な行為だと分かっているけど、できれば見たくないなとも思ってしまいます。
特に、小説のような文章や、映像作品での演技の場合、最初の頃は「(不出来なあまり)恥ずかしくて、見ていられない」が立ちはだかってしまい、自分の作品なのに、まともに振り返れない時期が続いたりします。
恥ずかしくなる時期を乗り越えて、一人の表現者、あるいは鑑賞者として作品に向き合ってみると、自分の現在地や課題がはっきりと見えてきます。個人の創作活動として小説を書いている私の場合、セリフ運びやキャラクター、物語の設定はそこまで悪くない印象ですが、各シーンのビジュアルを想定した時に、どうも「旨み」が足りない。その結果、全体として読者を引き込むポイント、読者をのめり込ませるエンジンが、いつまでもかからないような気がしました。
他にも至らない点は山ほどあります。読み返しが足りないから推敲も、セルフ校正も不足しているので、本来なら第一稿、第二稿と積み重ねるべきところを、実質「初稿を書き下ろすだけ終わり」になっているのがよろしくない......。
さらに言えば、語り手目線の一人称に徹し、「無理に盛り上げない」というスタイル、空気感や行間を読ませようとする妙なこだわりが自縄自縛になってしまい、より一層「面白くなさ」を加速させてしまっている。「誰もやらなさそうだから」という理由で、あえて変わったスタイルを貫いていますが、それが受け入れられているか、高評価に繋がっているかと聞かれると、首を傾げざるを得ません。
結局、「売れ線」はやっぱり「売れ線」であって、そこにはちゃんと売れる理由があります。特に、奇抜なことを、変なところで「自分」を出そうとしていないからこそ、広く受け入れられています。売れてもいないアマチュアが、面白さに貢献しない変なプライドやこだわりを掲げ、自分を出そうとしたところ、それは優先順位を間違えていますよね、と。
だったら、誰もが「面白い」と思うスタイル、誰もが受け入れやすい表現を取り入れてしまった方が良いのではないか。いっそ、原点回帰してしまおうと。ありふれているからこそ、無理なく楽しんでいただけるように、売れ筋の技法や心構え、映像的な脚本やビジュアルも強く意識した書き方を、改めて学び直しているところです。
今回は、個人的な学びから、「結局はベタなもの、定番が強いよね」という話をお届けします。一人の物書きとしての反省から、こうした方がいいんじゃないかという自分に向けた説教も込めて、偏見たっぷりに語らせていただきます。
斬新な尖り=最先端で優れているとは限らない
「丸くなるな、星になれ」は私も大好きな、サッポロ生ビール黒ラベルのキャッチフレーズ。「尖ってるね」とも言われたいし、尖りを捨てて丸くなるぐらいなら、いっそ理解されなくてもいい。大人にも羊にも、社会の歯車になりたくない。ヤマアラシのように孤立して、あえてジレンマを抱え続けたいその気持ち、私もよく分かります。
できれば、その「尖り」が優れていること、先進的であることとも結びついていて欲しい。そうすれば、承認欲求も満たせて、周囲に対してちょっとしたマウントだって取れるんですが、必ずしもそうではないのが現実です。
「誰かの理解」なんて振り切って、他の誰にも理解できない最先端を極めた表現の極地として、「パリ・コレクション(パリコレ)」を例に挙げてみましょう。デザインやファッションの世界において、「パリコレ」が頂点に位置することは誰も文句がないと思いますが、そこで披露されるファッションは、必ずしも「優秀」とは言い難いものもあります。
会場の外ではどうやっても着れないような、露出の多い作品があったり、「どうやって着るの?」と疑問符だらけの作品も珍しくありません。「そもそも、それはファッションなの?」とどう頑張っても狙いやコンセプトに対して理解が追いつかないものも、沢山登場します。
突き抜けた「尖り」の究極ですが、発表されたファッションを見て、「私も着たい」と思うことは少ないでしょう。パリコレに登場するモデルだからこそ着こなせて、あのステージだからこそ魅せられるのであって、部屋着や普段着を奇抜なファッションにする人は少ないはず。
「めっちゃ尖ってたね」というニュースや話題は広まっても、肝心の作品が一般に広まったことはほとんどありません。尖っていることが優秀なのであれば、もっと広まりそうなもんですが、パリコレという枠組みの中でどっちが評価されるかを競い合っているだけで、それ以上でも以下でもありません。
映像作品でも、作家性が迸っていて「前衛だね」と言われる作品は、全国ロードショーすることは稀です。ミニシアター系の単館上映で火がついて、ブームになったら広がっていきますが、大抵はエンタメ作品を一切扱わない映画館で上映されればいい方でしょう。
尖れば尖るほど、理解してくれる人、受け入れてくれる人の数は反比例して減って行きます。その「尖り」にきちんと意味があって評価される「尖り」であれば、後の世に評価される可能性を残していますが、作家の自己満足や独りよがりから来る、「分かる奴だけが分かればいい」は九分九厘でノイズです。
「他のやつと一緒にされたくない」、「こうやったら斬新だろう」のような、作り手のエゴ剥き出しのハンドリングは、基本的にはノーサンキューというのが、世間一般の回答です。
王道の良さは分かっているけど、気恥ずかしい
ベタな展開や王道というのは、確かに良い。その良さは痛いほどよく分かっているけど、それを踏襲してしまうと、金字塔と言われる傑作や、先人たちと肩を並べて比較されてしまう。当然、勝ち目なんてないのは分かっているから、できれば外したい。気を衒い、真っ向勝負にならないよう、変化球で姑息に逃げたい。
もしくは、自分も王道を歩みたいけど、真似しているような自分がカッコ悪い気がするというか、先人たちの後を歩いているような気分になってしまって、なんだかむず痒い気になってくる、気恥ずかしい気になってくる。もし一歩でも王道へ踏み出してしまったら、逃げる場所はないし、隠れることもできない。
そのモヤモヤも、非常によく分かります。でも、その逃げたい気持ちを誤魔化すように、「これがオレのこだわりだから」と尖りに走ってしまう。尖りやプライドを盾や言い訳にして、売れてる人たちが歩いた茨の道を避け続けたとしても、同じ書き手にも、受け手にも評価されるはずがない。
ベタな展開や王道を歩むという見世物、炎の上を歩くという痛くて恥ずかしい行為からは、逃げちゃいけない。そこから逃げ続けて、「前衛だから」とカッコつけてみたところで、「やるべきことをやってないでしょ」と後ろ指を刺され続けるだけ。
それに気がつくのに、二十年ぐらいかかりましたね。若さゆえの弱さと、なんで理解できないんだというプライドが邪魔をして、どんどん逃げ腰に、億劫になってしまいました。今は、腹を括ってそれと向き合わねばならないんだなぁと、強く実感しているところです。
大先生も、王道に目覚め始めた
島本和彦や井上敏樹は、ヒット作が何本もある大作家先生であると同時に、豪速球も唯一無二の変化球も併せ持った、独自の世界観や作風も支持されています。どちらかというと、王道を外して彼らなりの変化へ引き込むスタイルに思えますが、近年どちらも作風が徐々に変化しています。
島本和彦は、NHKの『漫勉』の取材や、それが一旦キャンセルになったエピソードや、還暦を迎えて「新しくなろう」と思ったことをきっかけに、「逃げていた」ことに気付いたり、ライバルたちから「学ぶこと」も沢山あったと語っています。
井上敏樹は、2022年から1年間放送された『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』を通じて、彼がこれまで同番組帯である「ニチアサ」や「スーパー戦隊シリーズ」で見せていた変化球の展開に対して、さらにその奥にある王道へ帰着するような本案を描いています。少なくとも、私の目には「井上敏樹の集大成作品」であると同時に、あの頃はできなかった「新しい井上敏樹」を見せてくれたのが、『ドンブラザーズ』だったように思います。
このように、どちらかというと「クセ者」の印象が強い大先生でも、老境に差し掛かったからか、支持されていた作風から一歩踏み出て、「読者や視聴者が求めている展開」を踏襲するようになっています。
結局のところ、剛腕な変化球の作風であっても、受け取る側に回った時は「王道」が好みであり、なんなら「大好き」であるが故に「同じことはできない」と勝負を避けてしまっていた。それにふと気がついて、「もうそろそろ、勝負しなきゃいけない」と腹を括ったのが、両者に見られる共通項だと思います。
「尖り」を見せたい、それで勝負したいと思う反面、「本当は......」と思っているのなら、思い切って「ベタ」や「王道」に舵を切ってみる。その上で、周囲が求める「好きな展開」でおもてなしをしてあげる。ここに、「オレはこうしたい」とか「気恥ずかしいから、気を衒う。独りよがりに変化させる」は要りません。
今からでも遅くないから、求めているものを出す。それが「王道」や「ベタ」であるなら、そのお作法にどっぷり染まりましょう。書き手の苦悩やポリシー、プライドなんて捨ててしまって、売れた後で悩めば良い。
王道プラスアルファ。知ってる奴でイイ
結局のところ、「新しい作品」に期待されているのは、「既存の作品」のアレンジであることがほとんどです。材料や調味料を工夫したり、お店やシェフ特有の得意な技を盛り込んだりして、「知ってるけど知らない」モノが求められています。
料理に置き換えるなら、「カレー」ならカレーを、「ラーメン」ならラーメンを出して欲しい訳で、「聞いたこともない料理」を出されたり、注文もしていないのに食べ方も分からない「ゲテモノ」を出されたりしても、口に運んでくれないでしょう。
そうじゃなくて、一般的なカレーの材料の一部、例えばお肉を鹿や熊のようなジビエに置き換えたり、玉ねぎをエシャロットやアーリーレッドにしてみたり、もっと突拍子もない国や地域の特産品、珍しい調味料を加えて、「カレーだけど斬新」なものにするとか、「カレーと麻婆豆腐」みたいな掛け合わせにするといったアレンジに期待が寄せられています。
作家特有のスタイルが浸透してきたら、「その店なりのカレー」とか、「なんとかシェフ味」を求めているわけで、食べられるかどうか分からない料理が目の前に出されても、キャンセルされてしまいます。
つまり、「我が家のカレー」とか「町中華の化学調味料たっぷりの醤油ラーメン」、あるいは「マクドナルドのハンバーガーとポテト」がウケる訳で、それが本当に美味いかどうか、優れているかどうかは二の次です。
それに「王道」はシンプルであるが故に、余計なことをする必要がありません。ウルトラマンや機動戦士ガンダム、仮面ライダーやスーパー戦隊といった、関連作品が多い長寿作品でも「初代」が「原点にして頂点」になりやすいのは、「比較」を考えてアレコレ加える必要がないからです。基本に忠実に、余計なことをしなくてもイイから分かりやすくて、無駄なノイズものちのシリーズ作品に比べれば少なくて済みます。
裏を返すと、何度でもリブート作品、リファインした作品が作れるぐらいには、骨太で力強い魅力を持っているのが「王道」であるとも言えます。ベタな展開や王道はお嫌いかもしれませんが、やっぱり「王道」というだけあって強い。長らく目を背けていた私も、誰も歩いていない横道ではなく、「ベタ」や「王道」へ回帰しようと思います。アナタは、どうします?
ベタに徹して、個性を足すのがおもてなし
ベタなんて、何の努力も工夫もない気がするから、変化を加えたい。そう思う気持ちもよく分かりますが、ベタや王道というのは「凡事徹底」とも言い換えられます。ありふれた普遍的なことに対して、極めるつもりで向き合えば、これほど難しいことはありません。小手先の誤魔化しが効かない世界で、真っ当に「良さ」を理解してもらおうと思えば、他のことに気を配る余裕なんてなくなります。
読者や視聴者が受け取りやすいように、とことん変な独自性、こだわりを排除する。余計なノイズも、良かれと思ってサービスのつもりでいる独りよがりも、一切混入しないように気を配る。これが、創作における本来のおもてなしでしょう。
その上で、そこにアナタならではの思考のクセや趣味嗜好を足してあげる。独自の味変ぐらいのつもりでちょっと添えてあげられれば、それが最良の在り方でしょう。個性を全部出したいなら、食材のチョイスや調味料の追求、食材を加工する部分の技で魅せつけてあげればOKです。
あえて一旦「尖り」を引っ込めて、丸くなったつもりで埋没してみる。王道の守破離を経てもう一度尖れば、本当のスターになれるかもしれませんね。
さて、ベタや王道にも向き合うBBNと、Webサイト制作やWebマーケティングに取り組んでみませんか?派手さのない、地味で目立たない凡事徹底を好まれる方は、ぜひお気軽にご相談ください。
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