月刊BLUEBNOSE 2025年05月号(#17)『一編の物語に、二つの転はちょっと入れない』
BUMP OF CHICKEN『カルマ』を若干意識した「すけべ心」も、ぜひ批判してあげてください。
一人の書き手として、たまにはナラティブというか物語の構造に関するお話でも。最近耳にする、「起承転結はもう古い」とか「とにかく展開させろ、転を増やせ」といったフレーズ。確かに、「1.5倍速」とかで映像を見るのが当たり前の「コスパ」の時代、「起承転結」を守っていると読み手を引き込む前に途中で離脱されてしまう、というのは良く分かります。
音楽でもとにかくイントロ、冒頭からキャッチーで掴みに行かないと、本当の聞かせどころまで待ってくれない。動画もかつてないほど流行っていますが、とにかくショートで短く、強いインパクトを残さないとと競争が激化しているように思います。
今のユーザー、特に若いZ世代は浴びせられる情報量も多く、とにかく次から次へと忙しなくインプットし続けなければならないとなると、多少意味が分からなくても倍速で、パッと見て聞いて、興味を抱けない、関心を掴まれなければ、次に行きたい。閲覧する環境もスマホやPCなど、注意や興味を削がれるものが多く、その堪え性のなさ、我慢のできなさは仕方がないのかも知れないなとも思います。
ウケるように作ろうと思えば、冒頭から事件を起こしてヒキを作る。早め早めに見どころや仕掛けを用意して、どんどん展開させる方がいい。疾走感を失わず、どんどん展開させ続けるべきだ。よって「転」という一番面白い部分まで時間がかかる「起承転結」は時代に合わない。これからは「起承転転」、むしろ「転転転転」だ。
ここで私は、目の前のグラスを掴んで、唐突に中の水を浴びせるでしょう。本当にそう思っているのなら、「頭を冷やせ」と。お前は「転」が何かを分かっていないし、「起承転結」も理解していないと。
何なら、胸ぐらを掴んで強引に立たせ、「歯を食いしばれ」と鉄拳なりビンタなり、愛のムチを浴びせてしまうかも知れない。「転」は多い方が本当にいいと思っているのか。「起承転転」や「転転転転」がベストな構造だと思っているのか。コンコンと一晩中説教できるぐらいには、積年の怒りが心の奥に仕舞われています。
冒頭から「転」を作っておいて何言ってんだと思われそうですが、昨今の「転」に対する風潮や、物語構造に対する私の想いは十分伝わったでしょう。ここからは極力冷静に私なりの考えをお伝えします。
そもそも「展開=転」ではない
起承転結における「転」を英語に訳すと、確かに「Climax」で最高潮。物語としては一番の見せ場であり、最も面白い部分です。そこがピークとなった後、物語の終わりへ向かって、だんだん下り坂となり、落ち着いたトーンになるでしょう。登山で言えば、山頂や峠が「転」に当たり、それを越えた先にあるゴールが「結」という構造です。
物語全体を通じた一番高い山場が「転」であり、一つの物語に「転」は一つしか盛り込めません。「一番高い山」が三つも四つもあれば「一番高い」が成立しませんし、「一番高い山」を上るため、山頂を超えてゴールへ辿り着くために物語を構成するため、たとえ連続していたとしても、本来はそれぞれ別の登山になります。
言い換えれば、「山場」や「見せ場」の数だけ「転」があるのではなく、それはただ単に本来の「転」へ至るための「展開」であって、イコールではないという話です。ヒマラヤやアルプス、立山連峰のように山が沢山ある場所で、その中の「最高峰」が「転」だとすれば、他の「山々」や「何とか壁」は「最高峰」を踏破するための肩慣らしや前座に過ぎず、メインはやはり「最高峰」となるでしょう。
後から振り返って、「他の山の方が大変だったね」と参加者全員で思ったとしても、全体で見れば「転」は「一番高い山」もしくは、「一番の難所」が「転」となります。
意外な展開やビックリするような仕掛けがあったからといって、「転」とは限らない。ホラーで観客をビックリさせるだけの「ジャンプスケア」が沢山散りばめられていたところで、その一つ一つを「転」とは思わないでしょう。途中で話が変化していっても、それは「展開」が多いだけ、ストーリー構造が複雑になっているだけであって、「転」が沢山あるって話ではありません。
仮に冒頭から「転」があったとすると、そこから先は下り坂。いわゆる「完全な出オチ」です。そんな物語構造、本当に魅力的ですか?
起承転転は、欧米の連続ドラマやMCU
それでも、「起承転転」がいいという声が聞こえて来そうなので、あえて指摘しますが、「起承転転」を繰り返すとどうなるかは、シーズン数が多い欧米の連続ドラマやMCU作品が現在、どうなっているかを鑑みればよく分かるでしょう。
その作品やシーズンが終わりそうになったら、それまでの展開の整合性なんて棚に上げて、完全には終わらせない。微妙な尻切れトンボで「次のシーズンを見ろ」と興味を引っ張るものの、「起承転転」を積み重ね過ぎると、どんどんファンが離れていく。そして、いつの間にか次のシーズンが作られることも、ちゃんと終わることもなく、打ち切られている。これが、作者やファンにとって幸せな結末でしょうか。私には、そうは思えません。
日本のアニメやドラマでも、2クール分や4クール分を一気に最後までやらず、シーズンごとに分割したり、パート2のように続き物を作ることもあります。特撮ヒーロー作品とかだと、お祭り作品みたいに複数の作品でクロスオーバーしたものも、沢山見かけます。ゲームに至っては、マルチシナリオやマルチエンディングを取り入れて、「何度でも遊べる」や「周回プレイ」は一般的とも言えるレベルでしょう。
しかし、欧米の連続ドラマやMCU作品と異なるのは、「一旦終わらせている」か、シーズンごとに区切りのいい見せ場を作って、途中で視聴が途切れても違和感が少ないように作られています。あるいは、事前に全ての作品を時系列に沿って予習しなくても、スッと理解できるような作りになっていることも多いです。(多少の事前知識やオタク的要素を求められる場合も、もちろんあります)
沢山の山場があるように思える長期連載作品だと、「〇〇編」のように一連のエピソードごとを分割して、その中でまた一連の「起承転結」を作っています。前後のエピソード群へ、別の「〇〇編」で起きたことが反映されたり、また活かされるような展開も、よくあります。それでも、物語全体を通しての「転」は違うところにあります。
例えば、世界で一番売れている漫画となった『ONE PIECE』ですが、今思うと序盤の序盤だった『アーロンパーク編』や『アラバスタ編』も大変面白いエピソード群ですが、だからと言って、アーロンとルフィの決戦が『ONE PIECE』全体における「転」とは思わないでしょう。クロコダイルとの戦いだって、同様です。
『ドラゴンボール』なら「フリーザ編」までの出来事が「セル編」に影響を及ぼしますし、「セル編」があって「ブウ編」に繋がっていますが、個々のエピソード自体はほぼ独立しています。悟空が小さく描かれていた頃のピッコロ大魔王との戦いや、レッドリボン軍とのやり取りから読まなくても、楽しめるようにできています。
確かに、情報量の多い作品や世界観を作ってお届けしようと思うと、受け取る側にも事前情報、知識をたっぷり刷り込んだ上で、さらに質の高いお話を展開したい気持ちはよく分かりますが、だからと言ってそこで「作り続けるためのコスト」を減らすために「起承転転」をやっても、制作サイドのお財布都合に過ぎません。
「転」を増やしたところで、必ずしも受け取る側のためになっているとは限らない。中途半端にモヤモヤさせるぐらいなら、一回「結」まで進めて終わらせて、それから別の物語を「マルチエンディング」なり新たな「〇〇編」として再スタートすればいい。それだけなのは分かっていても、それをやるためのリソース捻出や継続が大変なんですよね。非常によく分かります。
複雑なだけ、情報量が過度に多いだけは、日本では受けない
あくまで個人的な偏見に過ぎませんが、展開や情報の詰め込みが多く、ストーリー構造が本筋や面白さに寄与しないところで複雑な作品と遭遇した場合、「ああ、あの国のエンタメかな?」と感じることがあります。
特に韓国ドラマや韓国発の作品に見られるような気がしていて、人物や展開、活用されることのない謎や伏線が“過剰”とも言えるほど詰め込まれていて、「味付けが強過ぎるな」とか「そこまでしなくてもいいのに」と思うことも。サービス精神の高さが裏目に出てしまい、「面白さの嵩増し」が元の持ち味を損ねてしまっているなと感じることも、少なくありません。
「転」や展開、情報量を増やして複雑さを高めたり、唐辛子を大量に投入して辛さだけを強調したり、塩や油を目一杯入れてパンチ力を強めたところで、面白さの増大に必ずしも寄与するとは限りません。情報量も複雑さも過不足なく、むしろ少なめにして余裕や余韻を持たせる方が、物語としての奥行きは広がり、完成度も高まるのではないでしょうか。
「転」や展開を増やせば増やすほど、必要になる登場人物や謎、その他の情報は増えていきます。複雑になればなるほど受け手の脳内では余計な雑念やノイズが発生し、本来伝えたかった「面白さ」以外に気を取られるようになってしまいます。
だから、「面白かった」と思ってもらいたいなら、人も展開も情報も、必要のないものはとことん取り除くことをオススメします。一つに絞った「転」や「結」へ向かって、余計な情報はどんどん減らしていく。料理で食材のアクや臭み、余計な水分を除くための下処理をして、味を際立たせる、染み込ませやすくするための下ごしらえと同様です。
雑味も余計な香りも油分も入りません。よって「転」は一つでよく、一つの「転」を活かすためには「起承転結」の構造がベストである。それが私の答えです。
邦画や日本のドラマ < ハリウッドや韓国、海外作品とは限らない
海外ドラマやMCUが「起承転転」をやっていて、韓国の映画やドラマもとにかく展開や情報が多くてストーリーが複雑なんだから、日本も見習って面白くした方がいい。そもそも、その先入観をどうにかした方がいいなというのが、私の考えです。
確かにハリウッドのVFXやコンセプト、予算であるバジェットの大きさはスゴイなと思いますが、「お話」としての複雑さや面白さという点において、必ずしも日本の作品が劣っているとは思えません。例えば、漫画やアニメを見てみると、市場の広さや豊かさも去ることながら、日本以外では取り上げられそうにないテーマの作品や、複雑な展開を見せる作品が山のように存在しています。
これらを子供の頃から大量に浴びて育つ日本人視聴者が、大人になってからも鑑賞に耐えうる作品が次々に生み出される日本において、世界観構築やキャラクター造形、ストーリーテリングが他国に劣っていることはないでしょう。
『仮面ライダー龍騎』が海を越えて『KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT』と翻案され、その日本語吹替版を見たとき、思わず唖然としてしまいました。あの『龍騎』が、こうも単純で魅力に欠けた作品になるなんて、と。周りで評価している人もいたので、身近な人との感性の違いにも密かにガッカリしてショックを受けたことを覚えています。
『未来戦隊タイムレンジャー』と、その米国版である『パワーレンジャー・タイム・フォース』の違いにも衝撃を受けました。どちらもメインターゲットは同じはずなのに、翻案された『タイム・フォース』は極端に子供向けとして単純化され、キャラクターの魅力や物語としての面白さや複雑さが、すっかり失われていました。Youtubeにはその違いを指摘した動画も多く上がっており、海外の視聴者もその落差をしっかりと感じ取っているようです。
スーパー戦隊シリーズの中でも、歴代屈指の「大人向け」作品ではありますが、日本の視聴者からすると、あの『タイムレンジャー』をつまらなくする方が難しいのではというのが、本音です。
日本のアクションやヒーローの見せ方には、独自のケレン味があり、その点では他国に勝るとも劣らないと感じています。『KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT』を観た際にも強く感じましたが、どうも向こうのアクションには「殺意」が欠けているような印象です。攻撃の動き一つ一つに攻撃性や暴力性が感じられず、コンボの必然性も薄い。大きく動いているのにモッサリしているとしていて、ただ手を動かして合わせているだけで、ほぼダンスのような印象を受けました。
少なくとも、あれは「アクション」であって「殺陣」ではない。命のやり取りや、明確に「倒す」ための至る手順を踏むコンビネーション、ダメージの蓄積や部位破壊をしているようには思えませんでした。
また、変身シーンにおいても切れ味がなく、そこが一つの見せ場となるはずなのに、イマイチ「見栄」や「見映え」が足りていません。ヒーローのデザインや戦い方、決め技も非常に明確になっていて、「どれが必殺技か」や「どこを見ればいいのか」がハッキリしており、サービス精神が旺盛です。
例えば、円谷や東映特撮ヒーローは、「明らかにヒーローだ」という外見をしていて、決め技や盛り上がるシチュエーションも、見逃す方が難しいぐらいに明示されています。
その一方でMCUのアクションシーンは、「ただ長いだけ」になってしまっている印象です。何が起きて、どう終わるのかが分かりにくく、画面に映っているキャラクターが、誰がどれなのかも見えにくいため、ずっと緊張感を保ちながら見続けなければいけません。サービス精神に欠けているというか、どこに集中すればいいか分からないというのが、個人的には気になります。
日本のアクションやヒーロー表現が優れていると感じるのは、単に演出や脚本の力だけではなく、文化的な積み重ねが背景にあるからでしょう。長い歴史の中で身体の使い方や構え、間合いといった「武道」が染み付いていて、その上に、視覚的な魅せ方を徹底的に突き詰めてきた歌舞伎や能の「見映え」が重なっています。
東映特撮ヒーローは、東映が培ってきた時代劇を一部置き換えたものですが、戦隊モノに関しては歌舞伎の白浪五人男が原型で、戦いの前に名乗る文化としては、敵に名前を告げてから斬り合いを始めるような、鎌倉武士にまで遡ることが可能です。こうした文化が下地となり、「ヒーローはどう登場すればいいか」や「変身の所作はどうあるべきか」、「決めるシーンの見せ方とは」といった表現に生かされています。
海外のアクション作品に対して「物足りない」と感じるのは、単に演出が弱いという話ではなく、そもそもその文脈や積み重ねが文化として根付いていないからなのでは、とすら思います。まだまだ表面的にしかその「良さ」や「活かし方」が理解できていないのだろうなぁ、というのが正直な感想です。
2024年のパリ五輪で起きた柔道に関するトラブルを考えても、彼ら(欧米諸国)にとっての「柔道」は、勝ち負けを決めるただのスポーツでしかなく、「武道」としての理解は不十分なのではと感じる場面が少なくありません。
武道の所作や精神性の上に成り立つ「アクション」や「殺陣」に関しても言わずもがな。徒手空拳の戦いや剣劇、白兵戦の魅せ方については、日本に一日の長があると言えそうです。
「どう戦うか」や間合いを実戦の中で磨き、「どう見せれば良いか」にこだわってケレン味を模索し、さらに同業者の間で今も競い合い続けている日本のアクションや演出に、隙は皆無です。ただの「技術」ではなく、文化としての深みや美意識に裏打ちされた「表現」だからこそ、刺さるのでしょう。
地味な日常を静かに、また湿度を持って丁寧に見せていく。そんな脚本や、邦画ならではの演出も、実は独自の魅力を持っています。
表面的な派手さや複雑な展開で観客を強引に引っ張るような、力強さとは真逆のアプローチ。余計なものを削ぎ落とし、じっくり腰を据えて物語に浸ってほしい、見入ってほしいという姿勢が見えてきます。
それは、出汁でもとにかく旨みを足そうとするのではなく、「引き算」を最上とする和食に、どこか通じているようにも思えます。素材そのものの魅力を引き出し、余計なことはせずに、本来の味を楽しんでもらおうとする。静かな自信と深みが、邦画や日本の作品には息づいています。
美味しさが一発で分かるジャンクフードや、見栄えに優れた彼の国の料理も確かに魅力的ですが、だからといって、日本ならではの地味だけど奥深いスタイルが劣っているとは言えません。
派手に飾り立てる必要もなく、「本質」を味わってもらうために、余計な物を減らす。これは、提供している物や技に自信があるからこそできること。この揺るぎない職人気質が、カッコいいんじゃないでしょうか。
すけべ心か、独りよがりか、自己保身
「転」や展開を沢山盛り込みたくなるのは、結局のところ「そうするとウケるから」。「読者にウケたい」、「最後まで引きつけておきたい」という、すけべ心に他なりません。
「面白いと思ってもらえるだろうか」とか、「最後まで見てもらえるかな」と不安になって、つい「引きが強い何か」を追加したくなりますが、受け手はすぐに察知します。
「これは、ただの独りよがりだな」とか、「自己保身で保険をかけたな」と見透かされてしまったら、作品への信頼も、作者への信頼も、一気に薄れてしまうでしょう。
作り手にとっては自分や作品を守るための「保険」や「お守り」のつもりかもしれません。しかし、受け手からすると「信用に値しない」と思われるかもしれない、リスクの高い禁じ手であり、タブーに近い行為です。
どうせ読まれるなら少しでも高評価を得たい。できれば一人でも多くの人に読んでもらって、商業的な成功も掴みたい。職業作家になりきれない、ひとりのアマチュアの物書きとして、その気持ちは痛いほどよく分かります。
一生懸命考えて世に送り出した作品が、目の肥えた読者に厳しい評価を受けたり、筆を折ろうかなと思うような、作家生命を断つレベルの致命的な酷評されたりするぐらいなら、お茶を濁して批判を回避したい、世間の目から逃げ回りたい。その気持ちもよく分かりますが、マウンドに立つピッチャーのように、どこにも逃げ場なんてありません。
あなたは自分の思いや考えを世に投げかける張本人。逃げずに致命傷でも受け止めるから、作家として評価を高めるのであって、痛みを緩和しようと逃げ回るのはカッコよくありません。
作品や自分を、身の丈以上に見せようとすればするほど、どこかに無理が出てきます。酷評を避けようと過剰に盛ったり、ドーピングのような演出に頼っていては、作家として長続きしないでしょう。
自分の才能のなさや実力不足に向き合って、何度でも徹底的に打ちのめされる。覚悟を決めて、その痛みや恐さと向き合うしかありません。それを嫌がって過大に評価されようとするのは、作家としての業(カルマ)のようなもの。
だからこそ、一つの物語に対して「転」は一つまで。適量を超えてはなりません。余計な「転」も要らないし、背負わなくてもいい罪や業(カルマ)もそっと手放しましょう。
守らなきゃいけないことは、どうやら独りよがりとおもてなしの間
沢山の「転」を詰め込んで面白さをカサ増ししたい、作り手として安心したいという業(カルマ)。作家として評判を得たいけど、厳しい批判にはさらされたくない、痛い思いはしたくないという業(カルマ)。
クリエイターとして抱えがちな様々な業(カルマ)に対して、ケリはつけられましたか?ちなみに私は、まだまだ修行が足りないので、独りよがりなことに気が付かず、自分らしさの発揮や個性のつもりで余計なものを盛り込んでしまいます。
これにケリを付けられたら、作家になれない輪廻からは解放されるんでしょうね。
さて、物語の構造やナラティブにも一家言あるBBNと、Webサイト制作やWebマーケティングに取り組んでみませんか?受け取る相手に嫌な想いをさせず、純粋に楽しんでもらう方法を真剣に考えたい方は、いつでも気軽にご相談ください。
また、もしこの記事が気に入ったという方は、ぜひ当ニュースレターのフォローやメールアドレスのご登録をよろしくお願いします。
月刊BLUEBNOSEは、毎月1回、第三週の週末に配信予定です。当配信の感想やご質問などございましたら、#BLUEBNOSEか@bluebnoseをつけて、SNSにご投稿いただけますと幸いです。
また、noteやHP上のブログ、Substack等でも情報を発信しておりますので、そちらもぜひチェックしてみてください。
それでは、次回の配信をお楽しみに。
すでに登録済みの方は こちら