月刊BLUEBNOSE 2025年12月号(#24)『AIが苦手なN個の理由』
その一方でAIっぽさに対して「うっすらと苦手」と感じるタイミングが増えてきたのも、また事実。
自分自身もユーザーなのに、なぜ嫌悪感を抱いてしまうのか。その理由について、偏見たっぷりに言語化してみました。
ChatGPTやGeminiを筆頭に、日々新しいモデルが発表されている気がします。新しいバージョンが出るたびに「どれが優れている」とか、「今回のモデルは凄い」といった声を目にします。今までのものは違和感があったけど、今度はすごい、いよいよ仕事が奪われるーーみたいな意見を毎回眺めているような気がするのは、私だけでしょうか。
新サービスや新機能がリリースされたら、「こんなことも出来る」とか「私もやってみた」と、SNSには大量のコンテンツがフラッシュ放流のように流れ込む。情報の濁流を横目に見ながら、一人の受け手として「コレじゃないんだよなぁ......」と冷ややかに眺めてしまうのも、恐らく私だけではないでしょう。
単に私の趣味嗜好の問題で「惜しい」とか「物足りない」と感じてしまうのなら、それは完全に個人の事情です。しかし、「AIが作ったモノ」に対して「何となくの忌避感」を覚えている人が少なくないのも、また事実。中には、自分自身もAIを日常的に使っているユーザーなのに、「AIっぽさ」が垣間見えてしまうと、何となくネガティブな受け止め方をしてしまうという、ご意見も。
何故そんな気持ちになるのか。どうにも説明し辛い微妙な違和感を、上手く言語化できずにいる方も少なくないようです。
今回は、あくまでも私個人の偏見ではありますが、「AIが何となく苦手な理由」について、一度整理してみたいと思います。
生成AIがグレーなことを知っている
コレが直接的な原因ではないにせよ、何かあるたびに素直に受け取れない背景として、間違いなく影響している要素でしょう。生成AIの学習過程が正当なのか、生成物の著作権や権利関係はどう整理されるのかーー明確な線引きはまだありません。ただ、「取扱注意」であることを誰もがうっすら認識しているはずです。
生成AIを使えば何でもできるようになりつつありますが、全てをAIに任せ「これは私の仕事です」と胸を張れるかと言われると、2025年時点では、まだ微妙だというのが正直なところでしょう。
完全に違法とまでは言えないにしても、マナー違反、モラル違反と指摘されれば反論し辛い上に、元の権利者から民事訴訟を起こされる可能性だって、ゼロとは言い切れません。
「私的利用の範囲」に留まるうちは、まだギリギリセーフ。しかし、(SNSヘの投稿、発信のように)一歩踏み出してしまったら、何を指摘されても文句は言えない。「にも関わらず」という前提が、AI利用の全てに薄〜くまぶされている。このグレーさが、AIっぽさを素直に受け取れない理由にも影響しています。
AIっぽさと実力の周知
毎度のように、流行に敏感な人たちがブームを巻き起こすため、AIっぽい画風やフォント、色合いが広く認知されています。何とも言えないタッチのイラストや、妙に描き込み過ぎた劇画、日本語っぽいのに微妙に読めない簡体字や繁体字風の潰れたフォント、全体的にオレンジや暖色で統一されたカラーグレーディングを見かけると、つい「AIっぽい」と感じてしまう人は多いはず。
また、プロンプトやモデル、生成タイミングに左右されるものの、AI生成物がどの程度の実力なのかも、何となく周知されているような気がします。
その分野の愛好家や専門家でなければ「レベルが高い」と判断するかもしれません。しかし実際には、偏差値でいえば50±10あたりの、「平均よりは上かもしれないけど、突出していない」というのが妥当なラインでしょう。
時間や予算を確保すれば、より高いレベルの専門家を幾らでも見つけられる「微妙」なレベル。この実力と、AIらしさの両方が知れ渡った結果、AIっぽいテイストを見かけると、つい「合格点かもしれないけど、私としてはイマイチ」という判定を自動的に下してしまうのかもしれません。
決して平均以下ではない。一定の水準は満たしているのに、それでも合格点を与えたくない。
この微妙なラインが、AIへ抱く心理的な水準じゃないでしょうか。
平均的 ≠ 市民権
偏差値でいえば50±10なら、「悪くはない」はずーー。しかし、それで市民権を得られているかどうかは、別問題です。
例えば、熱烈な支持者も多い「チョコミント」フレーバーでも、人によっては「歯磨き粉の味だ」と苦手に感じる人もいます。また、昭和のバタークリームが苦手だった方もいらっしゃるでしょう。「それしかなかった」時代の美味しくないバタークリームを使った洋菓子が流行ったからといって、必ずしも好まれていたとは限りません。
最近ではバタークリームも美味しくなっていますが、かつての苦手なイメージをわざわざ払拭しようとする人は少ないでしょう。
同様に、AIっぽさが認知されているからといって、積極的に歓迎されるとは限りません。
多様な素材を取り揃えている「いらすとや」ですら、まだTPOを選ぶ時代です。
人の手によるチェックや修正が不十分なAI作品を、そのまま世に出すのは控えた方が賢明でしょう。
不気味の谷、もしくは力み過ぎ
「いらすとや」も生成AIと近い印象を持ちますが、AI作品に特有の問題として「不気味の谷」が挙げられます。
人間や実在するものに近い表現や存在であればあるほど、嫌悪感を抱いてしまう現象です。本来は、人間に似せたヒューマノイドロボット等で用いられる用語ですが、AIが生み出す作品にも「不気味の谷」が見られるような気がします。
例えば、生成AIが話題になり始めた頃のウィル・スミスがパスタを食べるAI動画は、面白いと感じる一方、気持ち悪さを抱いた方もいたでしょう。
イラストでは指が6本になったり、動画では文脈を保てずに違和感が生じることも珍しくありません。一見上手くできていても、AIっぽいテイストから半自動的に「不気味の谷」を感じ取ってしまうケースは意外と多いのでは。
また、私は特に文章において感じる部分ですが、以前の生硬な文章からするとかなりこなれてきた印象ですが、まだまだ肩に力が入った文章や、芝居がかった文章を生成しがちです。
いわゆる「真行草」の真=楷書体の形式ばった文章に固執しやすく、行書や草書のような崩した文章、型にハマらない気楽な文章は、不得手な印象です。
門外漢であればあまり気にならないかもしれませんが、「その筋」の人たちなら、あまりにも硬すぎる文章、力み過ぎの文章は、書き手として「こなれていない」という印象を抱くでしょう。
これは、イラストや映像、音楽でも似た傾向が見られます。学んだ型に沿って情報を詰め込み、余白やシンプルさを活かした簡略化は得意ではない。それ故に、データ容量や情報量を詰め込み過ぎてしまう。
手抜きができず、「らしさ」を最後まで貫き切れないのも、生成AIの課題と言えるでしょう。
ノイズを減らして、存在しないものを作る
何が「不気味の谷」だと感じさせるのか。また、何故「不気味の谷」が生じるのか。専門家ではありませんが、観察する中で気づいたことがあります。
それは、Photoshopなどの画像処理に見られる「計算機都合」の丸め処理と、美容整形に見られる「人工物」感が掛け合わさると、強い違和感を生じるということです。
アナログの世界では色も形も線も、情報は滑らかに連続しています。しかし、デジタルーー2進数の世界では、曖昧さを極めて苦手としています。
そのため、計算機は複雑な色味をマットな色に丸め、細かな揺らぎを均質なラインに置き換え、ノイズを消して良いものと判断して、情報を削ぎ落とします。このように、デジタルとして「扱いやすい」へ変換してしまいます。
その結果、鮮明で高解像度化しているのに、データとしては効率化が図られ、情報が抜け落ちたような人工的な滑らかさが生まれてしまいます。
ここに、「不気味の谷」の種が潜んでいるような気がします。
実際、Photoshopでビットマップ形式の画像から輪郭線をパス化しようとすると、存在しないパスが生成されることがあります。画像処理ソフトの側でノイズを減らし、データを丸め、計算しやすい形に置き換えた結果、現実には存在しないディティールへリプレイスされてしまう。
普段なら気にならない程度の処理でも、写実表現を追求した途端、捏造したディティールが目立つようになるーーこれが違和感の正体かもしれません。
また、過剰な美容整形が不自然に見える理由も、根本は同じように思えます。平均的な美しさや受けのいい黄金比、モデル化されたテンプレートなど、実在しない概念上の美しさを追求した結果、その人らしさが抜け落ち、量産型の規格に嵌め込まれてしまいます。
概念はイデアであって、リアルではありません。そこへ過剰に寄せていくほど、むしろリアルからは遠ざかり、作り物感が強調されてしまう。生成AIが抱える違和感も、この構造に近いのかもしれません。
解像度を上げたり、モノクロ画像の着色をAIに任せる場合も、非常に便利ですが同時に「存在しない何か」へ置き換えられるリスクも持っています。
AI特有の不気味さに飲み込まれないよう、注意した方が良いかもしれませんね。
AIを選んだことから来る「ガッカリ感」
技術的な理由とは別に、「AIを選んだ」という事実そのものが、AI作品を素直に受け取れなくなる要因にもなります。
現在のAIは、偏差値でいえば50±10あたり。決してレベルが低いわけではないものの、専門家や職人と比べれば明らかに見劣りします。まだその程度の成熟度であることは、多くの人が認識しています。
さらに、学習データの扱いや権利関係など、コンプライアンス上の課題も残っているため、大手企業や著名なブランドが慎重にならざるを得ないのも、当然です。
だからこそ、AIを使ったクリエイティブには「予算の都合で手間をケチったのだろうな」という深読みが生まれてしまう。
クオリティを優先してプロや専門家を選ぶのではなく、手軽さやコストを優先してAI選んだと見透かされてしまうと、作品とは別の失望を誘発します。
「自分たちの商品なのに、大切にしなかったのか」と。
事情があってAIを選ぶケースもあるでしょう。ただ、受け手としては、ブランドや商品への愛やこだわりを感じたいはず。それ故に、安易にAIを選んだように見える判断には、複雑な気持ちが残ってしまいます。
この「がっかり感」もまた、AI作品を素直に受け止められない立派な理由でしょう。
AIが苦手な理由は、コレ
話が広がり過ぎたので、改めて理由を整理してみます。大前提として「うっすらグレー」という認識がありますが、これはAI作品そのものというより、AIを扱う人に向けた色眼鏡なので、一旦脇に置いておきます。
大きな要因としては、次の点が挙げられるでしょう。
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不気味の谷を超えていない
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実はハイクオリティとは言い難い
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AIっぽさが市民権を得ていない、うっすら嫌われ気味かも
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「うっすらグレー」なのにAIを選んだという、ガッカリ感
こうした複数の要素が積み重なって、AIに対する苦手意識が形作られているのではないか、というのが私の個人的な偏見です。
やはり、業務でAIを使うなら、最終成果物を丸ごとAIに任せない方が無難です。中間生成物や素材作りまでに留め、最後は人の手で加工を施すこと。その上で「これは私の作品です」と責任を持つこと。
AIっぽさを全面に押し出すのは、まだしばらくはリスキーでしょう。SNS投稿のためであっても「私的利用の範囲」を超える可能性は十分あり、「うっすらグレー」だと理解しているのなら、軽率な使用は避けましょう。
それが、現時点でのAIとのリアルな向き合い方ではないでしょうか。
AIへの感度は、十分ですか?
2026年へ向けて、ますますAIが盛んに用いられるでしょう。恐らく私も、AIの導入割合を増やすかと思います。
しかし、AIを取り入れた結果に対して、世間がどう受け止めているか。アナタの感度は、十分高められていますか?
社会に対するAIの位置付けや、何となく嫌がられている理由、苦手意識を抱く可能性など、あらゆることに気を配らないと、せっかくの取り組みがネガティブに作用してしまいます。
文明の利器を使って、着実に前へ進むにはどうしたら良いか。本当に理解している人と、手を取り合うことをオススメします。
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