月刊BLUEBNOSE 2026年03月号(#27)『男の価値は、生きた本棚で決まる』

どこかで耳にしたことがあるヨーロッパの古い格言を元に、それに対する個人的な偏見をぶつけてみました。蔵書の多さや知識の豊富さが問題なのではなく、今も使われていること、自らの血肉として生きていることの方が大事なのではないかというお話です。
ぜひ、最後までお付き合いください。
BLUE B NOSE 2026.03.20
誰でも

男の価値は本棚の内容で見分け、女の価値はスパイス棚の中身で決まる。
または、"男を見極めるには本棚を見ればいい、女を見極めるには台所のスパイス棚を見ればいい”。

単純なルッキズムのみならず、男らしさや女らしさといったジェンダーなど、多方面に配慮しなければならない時代には、何とも危険な表現です。
「ヨーロッパの古い格言」とは言われていますが、明確な出所や出典は不明です。

その上で要約するのであれば、(特に男性の)人間性を判断する上で有効なのは、どんな読書遍歴かということ。そして当時は、家庭の食事や健康管理を女性が担うことが多かった社会でもあったと思うので、医食同源的な観点でスパイスやハーブの効能にどれだけ通じているかが「生活力」として評価されやすかったのかもしれません。

現代でそのまま適用するには余りにも取扱注意な格言ですが、相手が男性であれ女性であれ、ノンバイナリーであれ、どんな人物かを知る手がかりとして本棚を見るのは、意外と悪くないかも、とは思います。
もちろん、本棚に全てが現れるとも限りませんし、電子書籍も多い昨今だと、紙媒体だけをチェックしたところで、何も分からないかも知れません。

それでもなお、取材を受けることがあれば蔵書がぎっしり詰まった本棚の前でやるでしょうし、ゲストを招き入れる時は、他のコレクションと共に本棚を自慢したくなるのでは。
やはり、本棚には何かが現れる。
それは、電子書籍が溢れる現代でも変わらない、根強い感覚なのかも知れません。

という前提を踏まえた上での、今回の本題です。
本棚に人間の何かしらが現れるとして、それはどんな本棚であるべきなのか。
今回も私の偏見たっぷりに語っていきましょう。

本も本棚も、生きてます?

本は読まれなくても価値がある。
本棚に収まらない、床が抜けるかも知れない状況でも、絶版になる前に手に入れるべし。
積んでいる時間こそ大事。寝かせていたとしても読んでいる。

それも確かな真理でしょう。
買うだけ買ったけど、一度も開いていない本があっても構わないし、「こんな本買ったっけ?」と思うものが本棚に眠っていてもいい。版元も翻訳も版面も装丁も全く同じ本を持っているのに、二冊三冊と同じ本を買ってしまって、「やってしまった」と後悔しても構いません。

本も本棚も、人の数だけ自由でいい。
ただ、集めることが目的になった本棚では、人を正確に見極めることは難しいでしょう。

いい感じの装丁だからといって、日に焼けるのも湿気も気にせず、部屋を飾るための調度品や置き物のように扱ってしまうと、一人の本好きとして心が落ち着きません。

本の価値はよく分からないけど、雰囲気のいい洋書だからと開きグセも気にせずディスプレイしてしまうような喫茶店は、たとえイミテーションだとしても、なんとなく足が遠ざかってしまいます。

珍しい本を集めてしまう蒐集家の方も、確かにいらっしゃいます。
でも、「珍しいものを沢山集めたんだ」と自らの承認欲求を満たすためだけに、誰かに見せびらかすような人は少ないでしょう。

あくまでも、「集めることが楽しい」ことが先に来るはず。
希少な本は決して安くありませんし、重くて場所も取る存在です。
そんな存在に対して、対外的な自己アピールのためだけに時間とお金を費やすというのは、本末転倒のような気がします。

誰かに見せびらかすための蔵書、本棚ではその人の内面は分からない。
本が沢山詰め込まれていても、どの本にも埃が詰まったままの本棚、しばらく本を動かした形跡がない本棚では、生きた人の心は掴めないでしょう。

諸行無常と万古不易

本は、いつまで経っても本のままです。
綴じ方が甘かったり、接着剤を紙魚に食べられてしまったり、日光に晒されて表紙が色褪せてしまったり。保存状況によって、物として古びれていくことは確かにありますが、それでも生鮮食品に比べれば、保存期間ははるかに長いでしょう。

しかし、政治や芸能の世界にも栄枯盛衰や世代交代があるように、流れの早い分野であれば例え「本」の世界であっても、諸行無常があり得ます。
実用書やビジネス書、あるいはエンターテインメント性を重視した大衆小説、あるいは流行り廃りを追いかける雑誌全般も、生鮮食品ほどではなくても、一定の賞味期限があるような気がします。

どんな世の中でも価値が変わらない本、あるいは時代を経るごとに価値が増していく、万古不易(いつまでも変わらないこと)を体現したような古典があるのと同時に、時と共に廃れ、忘れられていく書籍もある。
それもまた真理です。

一見、ビジネス的なトレンドとは無関係に思えるプログラミング系の書籍であっても、秒進分歩の世界。
実際に動かすためのサンプルコードまで準備していると、企画してから出版されるまでにそれなりの期間を要します。そうすると、紙媒体の書籍は出た瞬間に古びれてしまったり、サンプルコードをそのまま真似てもバージョンや仕様が変わって動かないというのも、珍しくない話です。

トレンドを追いかけるジャンルなら、最近だと2年もあれば古くなってしまう世界。
無限に本棚を増やしたり、本のための床面積や書庫を広げ続けることはできないのに、いつまでも同じ本が一等地を占め続けるというのは、あまり健全ではないのかもしれません。

確かに長らく権威だったり、大家だった往年のスターもいらっしゃいます。
ビジネスの権威も文壇の権威も世代交代がある以上、万古不易に相当しないと判断すれば、心苦しくても、一等地からは立ち退いてもらう。

生きた読書というのは、そういう物じゃないかと個人的には思います。

好みも学びも変化する

どんなに好きな料理があったとしても、加齢によって味覚は変わるし、一度に食べられる量や受け入れられる油分は、徐々に減っていくでしょう。
子供の頃や学生の頃は大好きだったのに、今は見向きもしなくなったお店やメニューも、一つや二つあるのではないでしょうか。

年齢とともに変わっていくのは、味覚だけではありません。
モスキート音は聞こえなくなっていくし、徐々に耳が遠くなったとしても自然です。
老眼や視力の低下で小さな文字が見えにくくなったり、夜目が効きにくくなっても、「歳だから」。
温度の変化に鈍感になり、火傷をしてしまうというのも、珍しくはないでしょう。

視覚も聴覚も味覚も触覚も。
もしかしたら嗅覚ですら、加齢によって変化していくかもしれません。

そうすると、それらを土台とした思考や考え方についても、何らかの変化は現れて然るべきです。
好きな作家、応援したい推し著述家がいることも自然ですが、作家や文体の好みが変化しても不思議ではないし、同じ師匠に師事し続けていたとしても、学び続けていれば、考え方は徐々に変わっていくかも知れません。

いわゆる「守破離」として、師匠の教えを守り、いつかはそれを「破」って「離」れることもある。
学びに対して貪欲であればあるほど、色んなものから影響を受け、乱読や多読といったセレンディピティ、偶然の出会いを積み重ね、独自の考えを築き上げていったとしてもおかしくはありません。

「この人が好きだから」と盲信してしまうと、書籍を通じた知的なコミュニケーションを、自ら放棄してしまっているような気持ちになります。
常に「書き手に都合が良いように述べていないか」と疑ってみたり、相手の論理に対して批判的に構えたり。
その上で「自分はこう思う」といった見解を持った上で、額に汗を掻きながらぶつかって行く。
書き手との知的な闘争とも言える取り組みに対して、最初から無抵抗になってしまうのは、読書としてあまりにも勿体無いとすら、思ってしまいます。

作家や本の好みも、本棚の並びも、本を出し入れする度に変わっていく方が当たり前。
個人的にはそう思います。

書店にも図書館にも、代謝がある

無限に蔵書がありそうな書店や図書館も、常に同じ本棚ということはありません。
有限のスペースに対し、新刊が入ってきたら古い本は保存を優先し、保存に向いた閉架へ移動させたり、長らく売れていない本は版元へ返本したり。

大規模な配置転換はそれほど多くないですが、売れ筋によっては平積みにしたり、定期的に小さなフェアを開催して、いつもとは違う場所へ移動させることも、珍しくはないでしょう。

利用者、ユーザーの手によって、本来とは違う場所へ移されたり、上下や左右で入れ替わってしまうというのも、あるあるです。
検索機や在庫情報では「そこにある」と言われているのに、何度探しても見つからず、結局窓口で探してもらったという経験も、一度や二度あってもおかしくありません。

エッセイや小説、文庫本は回転が遅い方ですが、それでも徐々に入れ替わっていきます。
それはまるで、新陳代謝のように。

書店や図書館ほどのスペースがない自宅の本棚であれば、尚更です。
好みや学びもアップデートされるし、それに合わせて新しい本も入って来る。
それに、その時の気分によって「今読みたい本」が変わったとしても不思議ではありません。

本の配置も、本棚のラインナップも、変化があって当たり前。
時と場合によって、自分の中での興味関心が動き続ける方が自然じゃないでしょうか。

延々と溜め込むのではなく、限られたスペースの中で新旧を回転させ続ける。
本棚の中で、脈打たせること。

動きのない本棚では、その人の内面や価値は測れないでしょう。

思い出でも、通知表でもない

本棚には、今までの読書遍歴が現れる。
卒業アルバムや記念写真のように、「あの頃」を詰め込んだ思い出という側面も、ゼロではありません。

しかし、それ以上に大切なのは「今」がどうなのかということ。
「今」に至るまでの歩み、過去の成績も確かに無視できない土台ですが、今は何に依拠し、何を「使って」いるのか。
今でも現役バリバリの「道具」として、本や本棚があるのではないでしょうか。

これは、スパイス棚でも同じこと。
希少なスパイスや高価なスパイスを豊富に取り揃えてあっても、それが埃をかぶっているようであれば無意味です。例え数が少なかったとしても、今でも頻繁に動いている「使われている」棚かどうか。

知識をたっぷり蓄え、高所大所から「ああでもない、こうでもない」と過去を振り返って批判するだけでは、現役プレイヤーとは言い難いでしょう。
今も当事者としてフィールドに立っているかどうか。そして、そこに何を持ち込んでいるのか。

今のツールボックスとしての「本棚」であること。
今を切り取った本棚でなければ、アナタのことは分からない。

本が増えても良いし、減ってもいい。
本棚や蔵書が多くても少なくても、どんなに並び変わっていたとしても構わない。
大切なのは、ただのコレクションに陥らないこと。
一方的に溜め込むだけの場所にしないこと。

新陳代謝を繰り返し、拍動を感じさせる生きた本棚であること。
そうでなければ、価値は正確に測れないでしょう。

チを巡らせろ、チを通わせろ

本を溜め込むだけでは、知は巡りません。
死蔵する本が増えれば、やがて本棚全体も死にゆくでしょう。

本棚に活力を取り戻したければ、本を増やして満足するのではなく、本を動かし血を巡らせること。
本棚中に知を通わせること。

そうすれば、やがてアナタと共に生きる本棚、「使う」本棚へ変わっていくでしょう。
チが通った本棚を、見せつけましょう。

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